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長尾沙紀のブログです
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振り返らないのは天才の所業か

先日、無料券を頂いて、森美術館に行ってきました
現代アート展でした

現代アートってすごくこう…私にとってはいろんな意味で「難しいもんじゃないのかなあ」と思ってしまうものです
元々オブジェはゴミに近いものだと思ってるので(怒られるよ)

いや、そういう、ディスってるわけではなくて、生け花に近いと思うんですよ
その会場のその瞬間にあるものという、「作品」だと

あと、手で描いた以外の絵、道具の…なんというか…自然のしぶきとかを利用したような作品ってのは…なんつうか…

個人的な好みとしては、もっと、その作者しか描けないような絵とかの方が好きです
だって自然物が美しかったりすばらしかったりすることは、個人個人が楽しめばいいものであって、ソレを切り取って「これは自分の作品です」っていうのってなんとも不思議な気持ちがするんです
「私はこれがいいと思います」
は、たしかにそういう主張があるのはいいと思うんですけど、それって作品じゃなくて主張だよねと


「芸術作品」と「主張」ってのはなんか違うんではないかと最近思うようになりまして
芸術は懐が深いので、なんでもかんでも「芸術」として貪欲にそれを受け入れる傾向があるわけですが
でもやっぱりその中でもいろんな細分化された流派みたいなものがあるような

絵とか二次元のものってのは、音楽と違って意外と人は鈍感だと思うんですよね
音だと、大きな音で不協和音とか流されたら人によっては明らかに「不快」と感じることもあるのでしょうけど、絵だとそれが「快」であるか「不快」であるか、結構人は気付かないんじゃないかと
だから芸術って難しいし、だからこそ、不快なものまでも受け入れられるという懐の深さが出てくるのだということは解るのですが、でもそれは「不快」なものであって「快」とは違うんだという認識はやはり必要な気がするのです

それを踏まえてないと、せっかくの芸術の堪能にならない気がして…

で人を「不快」にさせる芸術というか…これはパフォーマンスに近い気がするんですけど、これってどうなんだろうと「不快にさせるのが楽しい」とか「不快にさせたい」とかってなんなんだろう

私はどちらかというと「不快になりたくない」人間なので
そういう人間はそういうもののそばに寄る必要はまったくないのだろうなあと思います
それでいいんだと思います

面白いですよね

で、これは、やはり「芸術作品」かといわれると、やはりまた、違うのだと思う
それは作者の「主張」だよね
主義主張なので「合う」「合わない」があるのは当然
なので、イマイチだとおもったらもう、それは見なくて良いのでしょう

話戻りまして

今回の展示の作者さんはたぶん技術的には絵を描いたりするのが得意なタイプの人なんだと思いましたが

まあ

そんな感じで

作り散らかすのが天才の所業なのかといわれたら、どうなのかなと

一つの才能かもしれないけど、それは天才ではないんじゃないかと思ったりして…

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繊細というか

ここしばらく、すっかりざっくりな感じの世界に晒されていて、すぐ環境に染まる私もすっかりざっくりな感じで…絵を全然詰めて描けてないのはわかっていたのですが、毎度おなじみにどう詰めるかってのも感覚的にはすっかり失っていて…大変困った状態になっていたのです

なのですが、久しぶりに、今日は上野で展示を見てきまして
なんといいますか、展示作品からその細かい部分の影響を受けることが出来ました
帰ってきて絵を描いたら、一気にいろんな部分の不足が解消されてました

なんなのか、よくはわかりませんが、絵というか、作品というのは描かれてる線とか色とか以上にその作品から発せられる「気」みたいなものこそが肝なように思うのですよね

なによりもそれが大事なような

まあなにしろ、なんとか詰めていけそうな気持ちになれてよかったです
これを維持しないといけないのですが…大丈夫か…??


価値観の破壊も大事

私は別に宗教とかに詳しいとかないので偉そうなことは全くいえませんが、神様を信じることの唯一無二の良いことは
「自分以上のものの存在を通して「謙虚」を学べる」
ことだと思っています

なかなか現代社会に普通に生きてて、謙虚さを学ぶ機会はそうそうないのではないかと

自分がちっぽけで、なんてことない存在なんだと思えるってのは本当に素晴らしいと思っています

これは「自分」しか感じてなかったら、思えませんからね

自分以上の大きな存在を感じて初めて「ああ、本当に自分ってちっぽけだな」と失望とかマイナスの意味ではなくて、そういう事実を受け入れられるという、その…なんというか…大きな自分以外の他の存在から与えられる安心感

そこからこそ、なにかを始められるというか

いや、ほら、例えばです

私は絵を描くのが好きで描いてるのですが、下手だったら描く意味ないとかそんな風には考えません
だって絵を描きたいから描いてるので、それは絶対

ただただ、自分の見てるものを描きたいと思ってるだけなんです

人から評価されなかったら意味がないとか、そんな風には思いません
評価なんてされないのが普通です
されたら「本当にラッキー」くらいなものです

お前がマンガを描かなかったからってべつになにがどうなるものでもないだろうと
全くその通り
そしてそうであるからこそ、私は安心してマンガが描けます

ありがたいですね

なんつうかな…圧倒的大自然とかを見たときに「わあ~……」ってなるみたいな
自分ってちっぽけだなって、否定的でなく思うじゃないですか
そういう感覚ですかね

なんか解りにくい文章で申し訳ありません(汗)

齢を重ねるということ

まだまだ若輩なのですけれど、でも最近思うのは
昔に比べて、経験値というか、モノを見る目というか
そういうものは段々と、歳を重ねるごとに見えてきたり、解ってきたりすることも多くて
人間ってのはなんと興味深いものかと感動いたします

日々忙殺されてたら気付かないのかもしれませんが、残念ながら結構のんびり生きさせていただいていて、学ばせられると申しますか

なのでこれからもっといろんなことを学べるんじゃないかなと考えたらもっと楽しいです

いろいろ気付くといままで解らなかったことも解って、でも多分それで全部理解したわけでもないのもなんとなくわかって

う~ん…深い…

深いところが楽しいなあと思わせられます

最近おもうこと

自分はマンガを描くことを表現方法として選んだ人間なので、他の表現方法についてはわからないことだらけなんですけれど
最近とみに思うことは映像の世界のことについて
CGとか使えるようになった昨今、アニメみたいな表現も増えていますけれど、でも実写には他のジャンルがまねできない実写の強みとか良さとか、いろんなものがあると自分は考えますけれど、なんか、映像をしてる方々はそう思わない方も多いのかもしれないなあとしみじみしております。。。

某アニメ監督とお話をしたときに
「ここで刀を投げたところで、普通だったら放物線を描くところを、アニメだと直線的にありえない飛び方や、刺さり方をさせるという選択肢を持つことができる」
なんてことを聞いた時に、ああアニメって、そういうもんなんだなあと、実写ともマンガとも、また違った表現方法なんだと、つくづくと感じさせられました

放物線を描いてしまうのはたしかに、このシーンにおいては残念なことだけど、実写であるからこその、リアルな空気抵抗とか、重力とかが存在してるのもまた事実

この重みとかってのは、なかなかアニメやマンガじゃあ意識をしないと表現しにくい部分ですから。。。

なんだけど、なんか最近の映像って、そういうリアルさがないほうがいいとか思ってんのかなとか思ってしまうくらい、作り物っぽい

現実のこの、なんとも、脚色のない部分のリアルさってのは、とっても隣の芝の青さを感じるんでけれどね
でもこれも、個人の体感とか体験とかないと感じられない部分だから、だめなのか

難しいな

まあ、なのでなにしろ
現実的であることを放棄してしまうのは今の時代においてとても残念なことなんではないだろうかと思ってしまうのです

という個人の意見でした

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